浦木探偵の推理と解決(漫画家にとってあがりとは?)
さて、今回は、浦木探偵の推理と解決(TMR先生)を取り上げよう。
TMR先生は、商業誌と何らかの関わりがあった方でしょうか。絵がこなれているのと、読みやすいのと、背景の描きこみがばっちりなので、そんな印象を受けています。
今回、取り上げさせていただいたのは、そのことではない。いや、後ほどそのことに話が繋がるのだが、最初に指摘したいのは、そのことではない。TMR先生は最近、更新のたびに女の子キャラとおっさんキャラが魅力的になってくるので何か生活に変化とかあったのだろうかと気になっていたのだ。
女にふられたとか、仏門に入って悟りを開いたとか、女子高に入学したとか、自宅に隕石が落下したとか何かそのような巨大な人生のライフイベントがあったのだろうか?それとも昔の記念写真に心霊とか発見してしまったのだろうか?そんなライフイベントを彷彿させるほど、急激に線が色っぽくなってきている。なんでだろう。
TMR先生は、ああ、こんなおっさんいるなとかああ、こんなお姉ちゃんいるなとかいうキャラをつくるのが非常に得意な方である。実は、あのようなおっさんもお姉ちゃんも本当はあまりいないと思うのだが、現実にいそうな気になってくるのが不思議である。最近のだと温泉の回がとても好きである。
で、このどちらかと言うとVシネマやフレンチコネクションみたいなハードボイルドなどが似合いそうな絵柄とキャラに、SFチックな設定をかぶせておられる。で、これが果たして成功しているかなのだが・・・。
漫画家と言うのは、自分で、漫画家と名乗れば漫画家になれる。以前は商業誌を通さなければ、殆ど、一般の人に自分の漫画を見せることができなかったのだが、今は、インターネット上に公開できるので、人に見せると言うハードルは凄まじく下がっている。
そのような意味でぼくは自分のことを漫画家だと思っている。
ここで、ただちに読者より嘲笑を浴びそうだ。
では、あなたは以下の人物のどちらが本物の漫画家だと思うだろう?
A 出版社より単行本を1冊出したけど、全く売れず、絶版になり、誰も覚えている人がいない漫画家
B 別にお金はもらってないが、インターネット上で、多くの人に見られて、たくさんの人に引用され、たくさんの批評を受ける漫画家
歴史に残ってる芸術家は必ずしもプロではなかったし、今後もそうだろう。なのでプロに執着し続けるメリットというのは、今はあまりなくなっていると思う。
で、多くの人に見られてというポイントは、どのくらい持続できるかが、大きな要因になりそうだ。
で、TMR先生である。ぼくはTMR先生を漫画家だと思っているし、先生も多分、ご自身のことを漫画家だと認識しているだろう。
問題は、その漫画家としての人生のあがりに何を持ってくるかである。
出版社にとって、漫画家とは、言ってみれば、弾丸と同じである。たくさんばらまいて、偶然、当たったものがヒット作になる。当たらなかった弾丸は回収もされずに捨てられる。ヒット作を出しても、売れなくなれば捨てられる。そして多分、大多数の漫画家は生活が困窮する中で忘れられていく。
なので、長い期間、多くの人に忘れられない漫画を描くということを目標にする場合、商業誌のみで活動することは、ごく一部の人以外はかなり不利な状況になるだろう。
ぼくは、自分の漫画家人生の目標を、① 自分の実人生を他人に忘れられないような漫画を描く ② 他の漫画家に影響を与える。 ③ できれば漫画史に名を刻む あたりに定めている。
TMR先生は、この漫画家人生の目標という究極の部分で、迷いがあるような印象を受ける。ぼくがこのようなことを指摘するのは、最近、TMR先生が描くおっさんキャラと女の子キャラがあまりにも魅力的なので、こんなキャラが描けるのなら、もっとわかりやすい物語の漫画を描いてもいいんじゃね?と思われるからである。
なので、浦木探偵と並行して、もう一作連載をしてもらったりすると、ぼくは嬉しかったりする。個人的な好みで言うと、おっさんが主役の重量感のあるハードボイルドが読みたい。
より、具体的に言うと、TMR先生の絵で、例えば、映画のチャイナタウンにエロとリョナが混ざったようなダークなハードボイルドが読みたいのかと聞かれたら、その通りだと答えざる得ない。
今回は、TMR先生と通して漫画家の人生とは何かを検討させたいただいた。
言うまでもなく、ぼくは漫画家である。
そして、TMR先生も漫画家である。
この事実は変わらない。
アルコイリス(空間の魔術師)
今回はMK阿久津先生のアルコイリスを取り上げよう。
キャラクターが自分好みである。絵も好みである。見ていて実に気持ちがいい。
この方は、既に担当編集者がついて、ネームの直しなどをされている段階に入っている方かもしれないので、今更、ぼくが何か論評することもないのだが、編集者の視点では気付かない点があるかも知れないので、あえて、ここで論評させていただいた。
まず、感じるのはMK阿久津先生の漫画は絵が気持ちがいい。最初、何故かよくわからなかくて、何回か読み返した結果、空間表現にその理由があるのではないかと思った。
「そんなの、消失点をちゃんとつくって、背景を描きこめば、空間表現などできるさ」とか思う読者もいるだろう。
MK阿久津先生の空間表現の方法は、実は、それだけではないのである。
MK阿久津先生ご自身、気付いていないかも知れないが、先生は空間表現を遠近法などとは別の方法で行っている。
例えば、視線。
MK阿久津先生の漫画は視線による距離感の表現が頻繁にでてくる。
屋根を見上げる少女の先にいるエルフ。見上げる少女の視線から読者は少女とエルフとの空間的な距離を感じ取る。
読者に視線を向けるキャラクター。読者はキャラクターとの物理的な距離を確かに感じ取り、読者とキャラクターの間にある、空気の存在を意識する。
これは、ぼくの推測なのだが、MK阿久津先生自身が自分の周囲の空間に対して極めて鋭敏な感覚を持っていて、それを漫画に無意識に落とし込んでいるのではないか?
前景に人物がいて、背景がベタのコマの場合ですら、そのベタの部分に確かに空間が存在している。特に背中のあたりに。
読者は、MK阿久津先生の絵に触れると自分自身の周囲にある空間の存在を、強烈に意識させられる。それがMK阿久津先生の漫画の生々しさにつながっていると思う。
空間を目で見て描く人は、かなりいると思うが(殆どの人はそうだと思う。)、
身体に取り込んで、感覚的に漫画として表現できる人はあまりいないのではないか。
この空間に対する鋭敏な感覚が、紙媒体の印刷物まで、通過して読者に届くものなのかは、ぼくにはわからない。
ただ、ぼくの目には、MK阿久津先生の空間に対する鋭敏な感覚は、物凄い強みに見えている。
聖ブランカ女子高校 美術科(ひよこ踊りで哲学を)
本日、自分の漫画を更新しようと思ったのだが、ちょうど、実家に帰って戻ってきたところで、過労で絵がかけない状態なので、こちらを更新しておこうと思う。(そして、この後、俺は飲み会だ!いえ~い! ゴールデンウィークは、仕事してるのより疲れるぜ!)
今回は、聖ブランカ女子高 美術部を取り上げよう。つぼにはまる人にはものすごくはまり、はまらない人には恐らく何が面白いのかさっぱりわからない漫画ではないか?
吉田戦車や榎本俊二と同じ系列の不条理漫画である。最近のものだと、クレムリン(カレー沢薫)あたりが似ているか?
ノウノ先生が描く、死んだようなキャラと死んだような線が、この漫画の不条理感を増幅している。
ぼくが猛烈につぼにはまったのは、女子高生がひよこのぬいぐるみを着て、踊りまくるシーンなのだが、よくよく考えると何故面白いのかよくわからない。今現在、ぼくはかなりの過労状態なので、そのあたりの体調なども大きな原因かもしれない。
今回、このひよこのぬいぐるみ踊りを通して、ノウノ先生の才能について考えてみたい。
ぼくが、これに一番、笑いの感覚が似ているなあと思ったのが、モンティ・パイソンの「バカな歩き方省」のコントである。風刺とかなんとかではなく、見てるだけで笑いたくなってくる不思議な笑いである。
これは、恐らく演技者の動作と感情が一致していないことからくる笑いではないか。文章にして説明されるとそうでもないのだが、実際に演技されるのを見るとと何故か爆笑するしかない不思議な笑いである。
ひよこ踊りについて言うと
① 中にいる女子高生が諦観を伴ったローテンション
② それにもかかわらず、ひよこ踊りは気狂いじみてハイテンション
③ そもそも、体操にひよこの着ぐるみを着る理由がよくわからない
という3点を同時に進行させると、何故か強迫的で不条理な不思議な笑いが起こるのである。ノウノ先生はそうじゃないと言うかもしれないが、ここには、哲学など一切ないと思う。ただもう、理由もなくおかしいのである。それと何故かわからないが、この死んだような線もノウノ先生のギャグに向いているように思う。
フナッシーが若干似ているかも知れないが、フナッシーに比べるとかなり冷たい笑いである。
なので、ノウノ先生の心境は実際は、こんな感じだろうか?
人生とは何かと、悩み過ぎた作者が到達しようとしている諦観が、この不条理な笑いであると。
ここに笑いのつぼを見つけられると言うのは、一種の才能だなあと思って、新都社の中でもかなりマイナーなこの漫画を今回、論評させていただいた。
ぼくが若い頃に、持ち込みをしていた際に、編集者から「おまえの漫画をギャグとして理解できる読者は10人に1人だ。おれは面白いけどな。」と指摘されたことがあるが、笑いと言うのはそのくらい個人差があるものなのである。
ぼくは、このひよこ踊りが猛烈に面白かったが、他の読者は別のところにつぼがあるかも知れない。
ノウノ先生は、発展途上だと思われるので、今後、どのように変化するかわからないが、もし、数年後に大化けしてモーニングあたりに連載するようなことがあったら、編集者より先に、ぼくがその才能に注目していたと、是非是非、誌上
で語っていただきたいと思う。
第2回 日々徒然追記
日々徒然追記
コメント欄を読んでいて、僕が書いた真意が伝わっていない不安に襲われたので、やや、論理的な文章を追記しておこう。
GaS先生の才能は、心理学で言うところの嗜癖と呼ばれるものが、昇華(心理学用語:防衛規制を参照してください。)された結果ではないだろうかとぼくは感じている。
何故、そのように感じるのかと言うと、ぼく自身が、強度に嗜癖的傾向を持っているからだ。
嗜癖には、
物質嗜癖(アルコール依存等)
過程嗜癖(ギャンブル依存等)
があり、仕事中毒などは典型的な過程嗜癖である。GaS先生の漫画には仕事をしていないとイライラしてくる描写がでてくるが、あれなどは過程嗜癖の禁断症状のように感じる。ギャンブルをしていないとイライラしてくるのも、煙草を吸っていないとイライラしてくるのも、仕事をしていないとイライラしてくるのも基本的には同じ心理である。
嗜癖行動は、無力感や空虚感を持っている人が、その不快感から逃れるために、
取り入れた行動で、誰でも持っているものなのだが、あまりにもひどい場合はもちろん、治療の対象になる。
ぼくが、GaS先生の漫画を読んでいて驚くのは、その技術の高さと生産量なのだが、これもGaS先生が描かずにはいられない人だったら、あり得ることだなあと思っている。
で、嗜癖的行動のベースになっている無力感、空虚感は、実は誰でも持っているものなのだが、普段は意識されない。意識するのは辛過ぎる感情なので、無意識の部分に抑圧されているのだ。
それを意識させられそうになったとき、人はモヤモヤとした嫌な感情が沸き起こってきて、その嫌な気持ちを忘れるために人は嗜癖的行動に誘導される。
病的なギャンブルや、過度な飲酒と基本的に同じものだが、あまり害がないものとして、ぼくはプチプチもそれにあたると思っている。そう、あれも嗜癖的行動の一種なのである。
そのような解釈が正しければ、GaS先生の創作行為は治療と創造を一緒にやっているようなもので、GaS先生の人生にとって、漫画を描くというのは、素晴らしいことに違いない。
ただし、そのように解釈した場合、当然、読者側にも何らかの心理的なメリットがあるはずで、それは何なのかをずっと考えていたのだ。
そして、ぼくが得た結論は以下のものである。
GaS先生の読者も、GaS先生と同じ、無力感、空虚感を持っている。そして、GaS先生の漫画を読むと読者は一瞬、不安な感情を持つ。不安な感情には人々は長くいるのは、耐えられないので、居心地のいい感情に着地させなくてはならない。このような感情の誘導は、もちろん、漫画家さんだったら、無意識にみんなやってる技術であり、そのあと、どこに落とし込むかと言うのが、漫画家さんの腕の見せ所である。この後にハレの感情に誘導するパターンが多いと思うが、GaS先生は、プチプチ感に誘導するのである。これが恐らく、GaS先生の漫画の中毒性の原因である。
これが、成功している要因の一つは、日々徒然がWeb上の作品であるというのも大きいかもしれない。Webで掲載されている作品を紙に打ち出して読んでみると、別の作品かと思うほど、印象が異なることがあるが、その理由のひとつが
Webは没入感が紙より強い。この没入感と中毒性は、非常に親和的である。
なので、GaS先生の漫画は、読者に原因と解毒を一度に与えるようなある意味、チートと言える構造になっており、それを可能にしているのが、GaS先生のクレバーさなのだろうなと考えている。
後藤健二先生の漫画を分析する際は、保守思想のベースになっているものは何かを考え、構造的なものを抽出してみたが、GaS先生の漫画は、漠然と面白いために構造的なものがなかなか抽出できなかったために、聞きかじりの心理学の知識を使って、その面白さの正体に接近してみた。
ただし、これは、ぼくが治療が必要な程、強度な嗜癖的傾向を持っているから、そのような読み方をするのであり、読者の数だけその読み方があることは、念のために付け加えておく。
第2回 日々徒然(砂漠に咲く一輪の毒花)
第2回の評論は日々徒然(作者 GaS先生)を評論させていただこう。
今回も実録系である。
この漫画はどこかの雑誌に掲載されていてもおかしくない。漫画そのもののクオリティが高いと思う。ぼくが気になっているのがGaS先生の絵の技術の高さである。漫画家としての基本的な技術が既に出来上がっているように見えるのだが、この人、どこで、それを学習したのだろうか?
と言うのは、例えWeb漫画であっても、その中で絵が上手いと思われる人というのは、どこかの漫画家のアシスタントをやっていたとか、持ち込みを一生懸命やっていたとか、美大生だったとか、もしかしたら今も漫画家だとかで、どこかで絵を本格的に学習した時期があるはずなのだが、漫画上のGaS先生の人生には、そのような形跡が全くないのである。これはちょっと驚きである。4コマ漫画は、絵が上手くないと、通用しない世界なので、GaS先生の技術の高さには注目している。
さて、それではGaS先生の漫画を分析していこう。
① Gas先生はクレバーな女性である。
これは、もう、認めざる得ないだろう。童貞の新都社読者に「私に変な幻想を抱くなよ!」とくぎをさすために、最初の方の回で便器に腰かけた自分の姿とか、体系の緩みとかを描いてしまってる。これで、読者はGaS先生に幻想を抱かなくなるのだが、だからと言ってGaS先生に対する好意がなくなる訳でもない。その後、彼氏が登場するのだが、ここでも、非モテの逆鱗に触れないようにちゃんと配慮されている。なかなかの策士である。GaS先生のツウィッターを読んでいると感じるだが、ここでも、不適切な自意識も漏れみたいなものが感じられない。これはできるようでいて非常に難しいと思う。GaS先生ご夫妻と面識があるぼくは、現実のGaS先生は堀北真希によく似た美女であり、ご主人がキアヌリーブスそっくりのイケメンであることを知っているのだが、非モテや童貞の逆鱗に触れないように、そのあたりは漫画の中ではしっかり隠されている。いやあ、見事なものである。
② GaS先生の漫画を読後感はプチプチをやるのに似てる。
ここから、GaS先生の漫画そのものについて論評しよう。日々徒然は社畜あるある系の漫画で、そのような形で論評されることが多いと思うが、ぼくはもう少し、掘り下げてこの漫画を分析ししてみよう。
GaS先生の漫画は面白い。
ただ、その面白さは爆笑をさそうような面白さではなく、もっとなんというか不健康な漠然とした面白さである。ようするにハレの爽快感ではなく、もっと別の種類の何かがその面白さの原因であると思う。
ここで、ぼくは自律神経失調系漫画と自分が勝手に名付けている漫画達を思い出した。 作品で言うと、臨死 江古田ちゃん
小説だと太宰治。
あの辺と同じ感じの面白さである。
この感じ、最初、うまく言語化できなかったのだが、この面白さ。あれに似てることに気付いた。プチプチをやる面白さ。そして、中毒性に・・・・。
GaS先生はプチプチをやる堀越真希である。
② 心が折れそうな時に、中島みゆきを聞くのはナウシカかムスカ大佐か?
日々徒然の中のエピソードにGaS先生が心が折れそうになったときに、中島みゆきの歌を聞いているエピソードがあった。ここで、ぼくは考えた。
ジブリキャラで、心が折れそうになったときに中島みゆきを聞きそうなのは誰か?
ナウシカは、多分、中島みゆきは聞かない。ナウシカが心が折れそうになったときに聞くのはエンヤだろう。
ナウシカのセリフに「私、自分が怖い。憎しみにかられて何をするかわからない。もうだれも殺したくないのに」とかいうセリフがあるが、中島みゆきに、おまえ、何様のつもりだとかつっこまれそうなセリフである。
では、ムスカ大佐はどうだろうか?
ムスカ大佐は中島みゆきを絶対に聞いていると思う。聞きながら涙を流していると思う。ムスカ大佐の名セリフに「見ろ!人がゴミのようだ!」と言うのがあるが、これは実は中島みゆきを聞いている人が、自尊心が膨らんだときに全員が口にする言葉である。宮崎駿は、中島みゆきからそのエピソードを聞いて、ムスカ大佐のキャラクターを作る参考にしたらしい。これは、ぼくが宮崎駿から直接聞いた話である。
で、このことより、GaS先生は、ナウシカよりムスカ大佐に似ているというのがわかったと思う。
それと重要なこととして、ナウシカはプチプチをやらなそうだが、ムスカ大佐は絶対に
プチプチ好きだと思う。
ここまでをまとめると
GaS先生は、ムスカ大佐の心を持った、プチプチをやる堀北真希である。
次にGaS先生の読者について分析してみよう。なぜ、分析しようと思ったかと言うと、GaS先生の場合は、作家と読者の心理的な距離が近い印象を受けているので、読者の分析も不可欠であると考えたからである。
ここで、突然であるが、
性格が全然違いそうな、この3人に共通している特徴はなんだろう。
それはプチプチをやりそうだと言うことである。
執着が薄そうなレイですら、プチプチはやっているそうである。
これは、ぼくがネルフの本部に電話で確認したから、間違いない情報である。
では、ターミネーターはプチプチをやるだろうか?
ターミネーターはやらない。自分の体を修理するのに忙しい。
ここまでのまとめは、GaS先生の読者はプチプチをやるエヴァンゲリオン搭乗員である。
④では、GaS先生と読者に共通した感覚って何なの?
これは、プチプチ好きの人は、何故そうなの?というのと同じ質問である。ムスカ大佐とエヴァの搭乗員に共通した感覚って何だろう?多分、虚弱体質っぽいことではないか?そこから発生する無力感が、ムスカを世界征服に走らせ、エヴァの搭乗員をワーカホリックに追い詰める。
GaS先生の漫画の基本的な構造もこうである。
GaS先生の社畜といえる人生を表面的になぞることで、読者は自分自身の無力感を無意識に刺激される。そこにGaS漫画(プチプチ)が提供されるので、読者はプチプチしてしまうのである。
これが、GaS漫画の中毒性の原因である。
⑤ おわりに
これで、ぼくは表面的にはほのぼのとしているが、本当は恐ろしいGaS漫画の構造を解明した。GaS先生は、これからナウシカになろうとしてるのかムスカになろうとしているのか?
いずれにしても、GaS先生は仕事中毒っぽいのでお身体には気をつけて、今後も漫画を描き続けていただけると嬉しいです。
新都社漫画評論・第1回 本当にあった後藤健二の話(21世紀のスポ根漫画)
今後、ちょくちょくとWEB漫画の評論をこのブログで書いておこうと思う。
WEB漫画というジャンルもだいぶ定着し、作品も蓄積されてきているが、本格的な評論となるとまだまだという印象を持っている。あるジャンルが蓄積されて発展していく過程で、評論が果たす役割は決して小さくないはずだ。商業漫画の評論は数多くあるが、WEB漫画、しかも非商業系漫画のそれは、あまり読んだことがないと思う。だったら、この俺様がそれを書いてやろうじゃないかと言うのが、評論を始めようと思った動機である。
で、まず、評論の基本方針として、自分が褒めようと思う漫画以外は取り上げないようにした。
これは、当然で、ぼく自身が漫画を描いているので、ぼくが他の作家を批判したら、批判の応酬になってしまうのは明らかだからである。
それと、評論する以上はちゃんと読んで、分析的な視点で論評するようにした。これは評論する対象の作者、そして作品に対する最低限の礼儀だと思ってる。
で、最初の作品は後藤健二先生の漫画を選ばせていただいた。理由は2点ある。一点目はぼくが今現在、実録系の漫画を描いているために、非常に参考にさせていただいているということ。二点目は、ぼくの目から見て後藤健二先生の漫画は面白いからだ。ぼくが新都社の漫画の中で一番読んでいるのが、この漫画だし、一番更新を楽しみにしているのも後藤健二先生のこの実録漫画なのである。
ただし、この漫画の何が面白いのかとなるとなかなか説明が難しい。実際にぼくは、その解答を得るのに、1カ月以上かけて分析している。そのくらい何回も何回も繰り返して読んでいる。
何故、何が面白いのかわからないのに、面白いと思うのか?
この謎の印象を与えるのは以下の点が原因だと思う。
後藤先生の漫画は、作者の波乱万丈すぎる人生が面白いのか、漫画そのものが面白いのかよくわからないから。一般の読者は多分、後藤先生の実人生の凄さに圧倒されるのではないか?
ぼくも、実は最初はそうに思ったのだが、よくよく検証した結果、やはり漫画として面白いと言う結論に到達した。
まず、後藤健二先生の漫画を以下の点について検証してみよう。
① 絵の特徴。ストーリ構成。
後藤先生の漫画はわかりやすいと思う。
絵やコマワリ等がシンプルなので、複雑な対人関係や感情の機微等を表現するのには向いていないのだが、逆に時系列に事実関係を把握させるのには向いている。
これは、恐らく、言葉で、漫画のストーリーを構成している結果ではないか?
結果的に読者は、共感すると言うより、観察するという立場で、後藤先生の漫画を読むことになる。
営業トークなども、実はこんな感じではないかと思ったりした。
次に、後藤健二先生の漫画が、何故、面白いのか分析してみよう。
② 本当にあった後藤健二の話は21世紀のスポーツ根性漫画である。
後藤先生は、ぼくの目から見て、一見、まともそうな人に見える。そのまともそうな人が、就職先に先物会社を選んでしまったり、起業して風俗店の経営者になってしまったりするのは、一体、どうしてなんだろう?
ぼくはこの原因をさぐるために漫画から後藤先生の対人関係の特徴を抽出した。これは、後藤先生自身が気付いていない後藤先生の一側面かもしれない。
●後藤先生の対人関係の特徴
同性間の関係はかなり縦社会
(よりきつい言い方をすると搾取的関係)
異性は以下の3種類にわかれる。
① 聖母系(鈴木主任、佐藤さん)
② ビッチ系(岡崎さん、ミカ、風俗のプロのお姉さん達)
③ それ以外(後藤先生が性的な対象外としている女性達)
これ、何かに似てないだろうか?そう中学くらいの体育会の人間関係、もしくはDQN集団の人間関係に・・。これは実はスポーツ根性ものなども同じ構造を持っており、物語における、女性の位置づけも多分似ている。
日本の家族集団を構成している価値観そのものだ。
根底にあるのは、儒教道徳だ。
後藤先生は儒教道徳と非常に親和性が高い方であり、描くと自然にそのようなマンガが描けるのだと思う。で、これは日本人の根底に存在している価値観なので、読者は、葛藤せずにこの漫画を面白がることができるのである。
なので、実は物語の裏に鉄板と言えるような強固な構造があり、これがこの漫画がすらすら読める理由だと思う。内容がエグイ割に読後にえぐさを感じないのも、後藤先生の行動が儒教道徳から逸脱しないからだ。例えば聖母系の女性達を風俗に追い込んだりはしない。ヤンキーマンガの聖母系ヒロインは、自分達の母親を無意識に理想化したものなのでこれは当然のことだ。ちなみに現実のDQN集団は、話によると、①の聖母系のヒロインの命令により、 いじめられっ子の女性達(ここで言えば②のビッチ系)が輪姦されるようなひどい世界だと聞いたことがある。より具体的に言えば、角田美代子ファミリー。あれが、DQN集団の本質である。このように儒教社会も、極北と言える状況になるとブラック化する。
そして、この特徴的な対人関係に対する親和性の高さが、例えば、先物業界や風俗業界等、同質の対人関係を必要とする集団に対して適応的に働いているのではないか?類似の集団は、ブラック企業、体育会、美容師、DQN集団などなど。これが、恐らく、後藤健二先生が、ブラック企業に遭遇しやすい、もしくは所属した集団がブラック化しやすい理由のように思える。
③ 後藤健二先生は素のスペックが高い。
甘く見てはいけない。後藤先生はハイスペック人間である。そして駄目人間の真逆の人である。
過酷なブラック企業を生き抜いて、今現在、風俗店の経営者をやっている。これ自体、極めて、困難な生き筋であると思うのだが、やりぬいている。これは文句なくすごいと思う。そして、ぼくがそれ以上にすごいと思うのは、②で指摘した、かなり特徴的であると思われる対人関係を周囲と構築できるエネルギーを後藤先生が持っていることだ。多分、これは素のスペックが高いから可能なのである。ただし、後藤先生の今の生き筋が後藤先生にとって生きやすいものかどうかはわからない。異なる価値観に触れてみるとより、生き筋が広がるかも知れない。
④ では、後藤先生はどこに向かおうとしているの?
これは、実はぼくが一番、解明に苦しんだ部分である。
ブラック会社の従業員達が、過酷であるにもかかわらず、何故、そこで働くことに(無意識に)喜びを見出そうとするのか、というのと同じ問題である。
ぼくが得た解答は、これである。
(スポ根漫画を美化せずに表現すると多分、こうなる。)
『ブラック会社の従業員達は搾取的な人間関係において、被搾取的な立場から搾取的な立場に成り上がることを目標にしている。そのために被搾取者の立場にいるときは搾取者の行動パターンをひたすら学習し続ける。彼らは、マゾだから自分追い込んで成長させたいと考えているわけではない。搾取のパターンを学習するという極めて功利的な動機でそれをやっているのである。もちろん、搾取のパターンは恫喝や暴力だけではない。ここには、懐柔や泣き落しも含まれるだろう。』
さて、後藤先生の場合はどうなのだろう?
⑤ おわりに
以上、あくまでもぼくの私見であるが、「本当にあった後藤健二の話」を論評させていただいた。最後の感想としては実録系はやはり面白いということである。ぼくは後藤先生の作品をもっともっと読みたいし、あれこれ考えてみたいと思ってる。なので、一ファンとして長く長く連載を続けて欲しいと切に願ってる。
貧困の再生産を解決する悪魔的な方法
もし、貧困が再生産されていて、かつ非婚率の大きな原因の一つに低所得があるとすると、 今の低所得者層は子供が作れないので、結果的に貧困の再生産はそこで止まるような気がするのはぼくだけだろうか?
今の日本では貧困層は家族を持てないので、もし、少子化対策を本気でどうにかしたいと思ってるのなら、中間層にこそ、手厚い福祉を充実させるべきでは?
なぜなら、中間層、富裕層の子息の人口が増加すれば、結果的に、貧困層の相対的比率は時間の経過とともに減少するだろうから。
もちろん、これが、倫理的に大問題だと言うのがわかってての暴言なのだが、それが何故間違ってるいるのか自分で自分を説得できないでいる。
誰か、これが間違っている理由を教えて欲しい。